(左:小和田泰経 中:磯部みゆき 右:東條英利)
前回ご紹介したとおり、摂政・関白の職を独占した藤原氏が厚く信仰しただけあって、目をみはる御神宝の数々。
内覧会の時間内に、先に待つ、刀剣・甲冑ゾーンに辿りつけるのでしょうか!?
春日大社は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)が御蓋山(みかさやま)へ降り立った後、三柱の神々をお迎えし、春日の地にお祀りしたのが起こりとされます。
第一殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと) 茨城の鹿島神宮から。
第二殿 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、千葉の香取神宮から。
第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿 比売神(ひめがみ)は大坂の枚岡(ひらおか)から。
768年に、これら四柱の神々を祀る社殿を天皇の勅命によって藤原永手(ながて)が造営。
一般にはこの年、神護景雲二年が春日社の草創と認知されるそうです。
・・・が、実はそれ以前からも春日の地で祭祀が行われていることが確認されるとか。
それほどの長い歴史の中で、一大勢力を誇った藤原氏を中心に、数々の宝物が奉納され、守り伝えられてきたということですね。
東條「ちなみに、大坂の枚岡(ひらおか)には、中臣氏(後の藤原氏)の祖とされる、天種子命(あめのたねこ)が、神武天皇の勅命で天児屋根神と比売大神を祀ったとあります。
この2柱が春日大社に勧請されたため、この枚岡神社は別名「元春日」と言います。」
そして、天児屋根命(あめのこやねのみこと)と 比売神(ひめがみ)の子として長保5(1003)年に出現し、保延元(1135)年に社殿が造営されたのが、「若宮」です。
見ていくと、仏教的な展示もたくさん見られます。
小和田「お、興福寺の僧兵だ」
「南都の僧兵」と呼ばれた興福寺の僧兵の姿が描かれた絵巻を見つけた泰経先生。
春日大社に氏神を祀る藤原氏。
興福寺は、その藤原氏の氏寺でした。
藤原氏と朝廷から便宜を受け、広大な荘園を支配下に置いた興福寺は、政治にも影響を及ぼすほどの勢力になっていったそうです。
後の戦国武将たちも、寺や神社の勢力との戦いには手を焼いていますね。
《天狗草子 興福寺巻(てんぐぞうし こうふくじのまき)》には、驕慢心(きょうまんしん)にあふれて天狗となってしまった僧たちが、熱苦を受けて苦しみますが、日に三度、春日明神から甘露を注がれるときは、その苦を逃れることができるという様子が描かれています。
仏教で、堕落した僧が堕ちるという天狗道。春日明神は、その世界から救ってくれる神様として描かれているのだそうです。
東條「磯部さん、神様がつくった仏様だよ」
磯部さんと東條さんが注目しているのは、奈良・円成寺に伝わる《十一面観音菩薩立像》です。
なんと、こちらのお像は、春日明神が造ったという伝承があります。
東條「神仏習合ですね」
古来姿のなかった神々でしたが、日本に仏教がもたらされると、やがて神と仏は本来一体のもの!
という神仏習合の考え方ができ、神々の姿が描かれるようになりました。
春日の場合は、
第一殿 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
本地:不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)もしくは釈迦如来(しゃかにょらい)
垂迹形:束帯姿の男性
第二殿 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
本地:薬師如来(やくしにょらい)
垂迹形:束帯姿の男性
第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
本地:地蔵菩薩(じぞうぼさつ)
垂迹形:僧形
第四殿 比売神(ひめがみ)
本地:十一面観音菩薩
垂迹形:女性
若宮 本地:文殊菩薩
垂迹形:童子形
とそれぞれ決められたとか。
こちらは、春日大社の景観を描いた《宮曼荼羅》。
当時最大級の大きさだそうです。
磯部「曼荼羅っていうと、仏教のイメージでした」
小和田「神社の全体像や景観が良くわかるね。しかも、こうやって時代ごとにたくさん伝わってると、建物の変化なんかがいつ起きたか分かったりするんだよね」
さてさて、展示物がどれもこれも興味深いのですが・・・
限られた内覧会の時間は無常にも過ぎ去り。
「甲冑見なきゃ!」と泰経先生が焦り出してきました。
貴族社会だった平安時代にも、太刀や弓矢、鉾といった武具が奉納されていますが、実戦用というよりは、儀式の際に帯びる武具としての性格が強いそうです。
鎌倉時代以降、武家政権になってくると、だんだんと奉納される武具は実用性のあるものへ。
特に、大きな変化は、甲冑が奉納されるようになったことだそうです。
ということで、
やってきました、刀ゾーン!!
《沃懸地酢漿平文兵庫鎖太刀(いかけじかたばみひょうごぐさりたち)》。
刀身は無銘ですが、北条太刀などの鎌倉時代前期までの、奉納目的で制作された刀身の特徴があるとか。
輪にした針金を、二つに折り曲げ、それをつないで鎖にしたものを「兵庫鎖」というそうですが、
この丈夫な鎖を使用している太刀「兵庫鎖太刀」は、平安時代末期に成立したもので、公家や武家に好まれ、神社への奉納品としても用いられました。
こちらの《金装花押散兵庫鎖太刀(きんそうかおうちらしひょうごぐさりたち)》は、鞘などに花押が墨でたくさん書かれ、当時としても奇抜。
「なんか、落書きみたい」と泰経先生(笑)
刀身は備前・長船作と考えられています。
食い入る磯部さん。
磯部「これ、摺り上げられて目釘孔がたくさん空いてるけど、使われてるんでしょうか?」
小和田「奉納されている刀だから、さすがに人は斬ってないんじゃないかな?箱書きが残ってるのも貴重だよね」
《菱作打刀(ひしさくうちがたな)》は、箱書きから、至徳二(1385)年に藤原北家勧修寺(かじゅうじ)流の支流、葉室長宗(はむろながむね)が打刀(うちがたな)を奉納したことが分かるそうです。奉納の経緯が分かる刀剣はとても珍しいとか。
火肌と呼ばれる痕跡が見られることから、一度被災した後、再刃されたものと考えられ、万里小路時房(までのこうじときふさ)の日記から、葉室光頼(1124-1173)以来の相伝の打刀だったことが残されています。
そして、甲冑ゾーン!
「大鎧」と呼ばれるタイプの甲冑が異彩を放っています。
やっぱり、奉納されるためにつくられたものらしく、とにかく豪華!!
小和田「これは豪華だね。当時から家1軒立つくらいじゃない?」
小和田「飾りで付いてる透かし彫り1個だけでも相当手が込んでる」
磯部「この飾りブローチにしたい!」
小和田「いいけど、警報がなるかな」
小和田「お、これが鯰籠手!珍しい~」
あれ、先生、テンション上がり気味ですね。
遠藤「どこが鯰感あるんですか?」
小和田「形かな」
小和田「鎌倉時代は籠手は片方だけだったのが、南北朝くらいから両方つけるようになったんです」
鎌倉時代は、弓を射るのに適した「片籠手」が主流ですが、打物合戦が普及した南北朝時代からは両手に付ける「諸籠手」が主流となったそうです。
この籠手、こうした「諸籠手」の最初期の作例だとか。
源義経が、兄・頼朝から追われた際に残していったという伝承があり、「義経籠手」とも呼ばれています。
小和田「そういう伝承が付くのも、古くから残ってるからだね」
今回の展覧会の目玉のひとつ「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」は、後期展示になるそうで、泰経先生「もう一度来ないとな~」とブツブツ。
刀と甲冑をたっぷり見ていたら、もう時間がない!!
その先に待ち受けていたのは、
巨大な鼉太鼓!!!
神々に捧げられた芸能をテーマに、舞楽面や装束といった、煌びやかな宝物が~~~
そして、最後のゾーンは春日大社の式年造替がテーマ。
わ~~気になる展示がたくさん・・・を横目に、ほぼ素通り。
伊勢神宮は20年に一度、出雲大社は60年に一度、式年遷宮が行われ、神殿から宝物までが造りかえられます。
ですが、春日大社の式年造替では、ご社殿もできることなら修繕、調度類も守り伝えるという考え方があるそうで、そのために、「平安の正倉院」と呼ばれるほどの神宝をこうして拝観することができるのかもしれません。
第二殿を再現した展示では、実際に春日大社で神様の傍近くで使われていた御簾や金具などが使われているそうです。
御神宝の数々、春日大社の歴史を語る品々を間近で見られる貴重な機会に感謝して、会場を後に。
さて、今回は、戦国期よりも遡った時代の展示物が多かったのですが、それが戦乱を乗り越え今まで伝わっている凄さにあらためて感動しました。
小和田「けっこう春日大社のあたりも戦国時代は合戦があるけど、松永久秀(まつながひさひで)から筒井城を取り返した筒井順慶(つついじゅんけい)は、すぐ春日大社に詣でてるしね。
信長は、比叡山焼き討ちなんかがあるから、信仰心がないように思われがちだけど、そんなことはなくて、奈良の鹿を殺した人を罰したり。
世界を見ても、支配者が代わって奪われたり壊されたりすることも多いなか、これだけそのまま残っているのはすごいことだよね」
必ずもう一度、前期展示。
そして、後期展示。
あと2回は行きたい。
第一会場と第二会場の間には、お土産コーナーも!
磯部さんが「かわいい!」と、お気に入りだったのがこちら、
「金地螺鈿毛抜形太刀」に描かれている「竹に猫と雀」をモチーフにしたオリジナルグッズです!
かわいい・・・。
特別展「春日大社 千年の至宝」
2017年1月17日(火)~3月12日(日)
※会期中に展示替があります。
東京国立博物館 平成館(東京・上野公園)
開館時間:午前9時30分~午後5時 ※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日
お問合せ:03-5777-8600(ハローダイヤル)
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